コラムニスト三大久也
コラムニスト三大久也(ペンネーム さんだいひさなり)が
鋭い感覚で表現するジワーと来るコラムです。
大安吉日
A-4
4)-1
皆さんは縁起を担ぐ方だろうか?
特に 友引 先負 大安 赤口 先勝 仏滅 は
日本人なら多少は気にするだろう。実は私はこれらの
事には大して関心が無かった。
結婚式,葬式,の時ぐらいであとは婆さんがちょっと
使うぐらいにしか思っていなかったのである。
ところが外廻りの営業をするようになってから
実は非常に気に掛ける様に変わったのである.
納車先の社長さんがこの日が大安だから
この日が先勝だからいいとか言うのである私の
場合宗教には殆ど興味は無いが現在では
結構自分でも信心深い方では無いかと思っている。
祖父母父母がそうであったからであろう。
その後姿を見てきたからであろう 神棚に向かって
手を合わせることに人前をはばからない。
納入先の社長さん方が殆どそうであったからだろうか
自分が結構 信心深いことに気付いたからだろうか.
自分を鼓舞し営業成績を上げる為だったのだろうか
とにかく気にするようになったのである。
今でも強烈な印象
を持った 一件の 納車の思い出が有る。
≪ 続く ≫
4)-2
また一つ 敵の牙城を崩し のりに乗っていた頃の
ことである。納車準備が整い 先方の社長さんに
電話を入れた。「社長納車準備ができました。
「納車は 何日に致しましょうか?」
社長は「そうだなあ実は今月から出張〔出稼ぎ?〕が多くて
不在が多いからなあ良い日が殆ど無いなあ
ちょっと待ってくれ」そう言って電話を切った社長は
1時間後位に電話して来て「10日にしてくれ」と
言って来た。そのころ多少は大安等を気にし出していた
私は「えー社長いいんですか10日は仏滅ですよ。」
と他の予定が有ることを思い出していた私はしまった
と思いつつ つい言ってしまったのである。
と社長いわく「いいんだよ 今月はどうしてもその日しか
空いていないんだよ仏滅でも いい日があるんだよ。
10日に持って来てくれ」と言ったのである。
「へえーそうなんだ 仏滅でもいい日があるんだ。
深いんだなあ」ともう一件のキャンセルの事をチラット頭に
浮かべながらも やっとの思いで崩した こちらにとっては
今後重要になってくるであろうこのユーザーの社長の
言うことは ここはちょっと無理してでも 聞いておかなければと
思っていた私は社長の声を聞きながら妙に感心していました。
≪ 続く ≫
4)-3
しかし それじゃと 思いかけていた私に社長は追い討ちを
かけてきたのです。「但し 高所作業車は 東南の方角から
持って来て昼の 12時きっかりに会社の門をくぐってくれ」
「えー社長12時丁度ですか」「そうだ12時丁度だ。
12時丁度でないとだめだ それ以外の時間はだめだぞ
それ以外の時間に来たら 受取らないからな」
「わかりました社長 一つだけよろしいですか?
社長の社屋の門は確か 東側だと思うのですが
これは宜しいんですか?」
「そうだなあ やっぱりだめだ 丁度社屋の東南方向の
ブロックのダイコン畑の横が空いてるだろう まあほんとは
門でないといけないいんだろうけど まあいいや
あそこから 車を入れてくれ」私はいつもは 営業車で
納車に行くところを その日ばかりは陸送屋さんの運転する
高所作業車の 助手席に乗って行ったのです。
私は社長の言われた通りになるべく東南方向からの道を
選ぶ為にわざわざ何kmも遠回りをして11時40分に
会社前に到着し12時丁度に 車幅ギリギリの
ブロックの横から 車を入れたのである。
私はこの事があってから大安吉日を 前より
大分気にするようになったのである。
≪ 終り ≫
母の米
A-1
1)-1
私は種子島生まれである。
約半年振りに帰郷した いや夏になると特に あのギラギラした
太陽とエメラルドグリーンの海が 本当に恋しくなるのである。
島を出てから40数年も経ってなおである。
ところが最近帰省する度毎に 公私ともに 生活様式の急激
な変化に驚かされる。ここ4,5年の変化のスピードは
私の住む千葉県よりも上回っているだろう。
今回の帰省も私の面で どうしても現実としてある 避けて
通れない命題。年老いた親と故郷を 考えさせられる
帰省でもあった。 ≪ 続 く ≫
1)-2
晴れたのは10日と11日だけ 後は曇りか雨 母によると
今年は異常気象でほんとに雨続きだったとか 島では例年
7月20日頃には米を収穫する 台風が来る前に実る
早場米種だからである。
ところが今年は 8月に入っても 収穫出来ない人が
多かったと言うのである 実際私が帰郷した時もまだの人が
いた。もちろん 米は実って刈り取ってはいるのだが 乾燥が
出来ないのである。
米は 機械であろうがカマであろうが 刈り取った後
乾燥してから 収納しなければならない。 その最後の
工程の乾燥が 雨続きで出来なかったと言うのである。
さすがの母も今年は 知人の乾燥室を利用せざるを
えなかったとか。 ≪ 続 く ≫
1)-3
苗を買う 猪苗代を開けてもらう 最近聞いて驚くのである。
昔は 種籾の消毒から始まって 文字通り 全て 自分の家で
行ったものだ。今はただ 自分の 田んぼと言うだけである。
全て人任せ、機械任せである。
母の米は 相当コストの掛かった高い(価値の高い)米に
なっているのだ。たとえ高くついている米であっても 自分の
米でないと 子供が 帰郷した時、親戚が来たとき 持たせて
あげる米がないからと 母は言う。
母にとっては 文字通りの ライフラインでありアイデンテイテイー
の米であるのである。 ≪ 続 く ≫
1)-4
だから 子供たちが いくら 口を 酸っぱくして 田んぼなんか
全部捨てておけ 米は買った方が安いよ、第一老人には
体に悪い、危険だ、田んぼなんか 出来ないでしょう、
人に迷惑をかけるな少しは人の言うことを聞いてくれ、
米なんかいくらでも持って行くから、等々 なだめすかし
雑言罵倒しても、全く効き目はないのである。村で長系統の
家に嫁いで来て 体を張って親父を支えてきた母にとっては
たとえ親父がいなくなったとしてもそれなりのプライドが
許さないのであろう。
証拠には未だに親父が生きていた頃にくらべたら1/3にも
満たないだろうが村人との付き合いを続けようとするのである。
最後には 老人ホームに 入っているよりはましか、ケガするなよ
であきらめに変わってしまうのである
≪ 終り ≫
上原浩治投手
米ダイリーグ上原浩治投手の大活躍に寄せて
A-2
上原投手おめでとうございます。 2-3日後には 私はきっと
ワールドチャンピヨンに輝いた彼に 心の底からのリスペクトと共に
称賛の祝福の拍手を送っている事とおもいます。
いわずと知れたいまや話題のヒーローBRソックスの
上原浩治投手の事である。彼の大活躍のニュースは
海のむこうから毎日のように流れてきます。
野球中継を見ている人の数は 今や毎日1300万人から
1700万人とも言われている。アメリカだけの話である。
これにインターネットが加わるとするととてつもない人の数となる。
その中心にいる人物ですからこれはもうすごいというより
他はない。彼はもう既に億万長者であり大スターで
ありその名を野球史に刻んだアメリカンドリームを達成した
すごい男である。
彼は決して1流選手などではない。
超1流選手なのだ。
うまく言えばなんでも勝ち馬に乗ろうとする 悪く言えば風見鶏
のにわかえせフアンの私のあてにならない知識によれば
彼は大学で既に名をはせており卒業後は巨人か はたまた
ダイリーグかで悩み お父さんの巨人フアンと彼のダイリーグ
での通用するや否やの判断 そして巨人側の熱烈なコール
と相まっって 自ら巨人を逆指名するという契約大金と共に
鳴り物入りで巨人に入団したすごい男だったのである。
入団後は1年目から大活躍そのまま 巨人を何年間も
背負った巨人のエースであった。巨人のエース時代巨人
のフアンだった私の記憶では彼は剛速球を投げる男という
印象が強かった。
実際彼は最速145,6KM投げていたから当時150k
前を投げる投手は素人の私の目には剛速球を投げる
男でしか無かった。
実際いつも投げた後三遊間にゴロがいき 彼が少し
小躍りしながら後ろを振り返り球が遊撃手のミットに
おさまったらそのまま引き上げるという例のスタイルを
繰り返し繰り返しTVでいつも見ていたからあの印象が
私の心には 今でもに強く心に残っている。だから針の
穴をも通す正確無比なコントロールを持つすごい男
として何かの記事に紹介された時 私は{へえ–そう
なんだ}という言葉を漏らすした記憶があるし また
なんとなくうれしいようなそれでいてどこか悲しいような
とにかく今迄自分が持っていた感覚知識と少し違う
という所に違和感を持ったものだ。振り返って考えて
みればあの時すでにプロの選手としてはすごい人で
正確無比なコントロールを持つすごい男として
評価されなければならない人だったのでは
ないでしょうか?どうも日本人は1流選手
と超1流選手の見分けがつかないようだ。
これは1つには日本人社会が実は1流選手
ばかりで周りが逆にレベルが高いが為に
超1流選手を見落とし勝ちになるのではないでしょうか?
今まで会社でも起こったことだしアスリートでも学者でも
研究者でも未だに現に繰り返し繰り返し起こされ
続けている事であるかなとも思いますし 実力世界の
アメリカへ行って初めて 格差社会へいくとその差が
はっきりと見えてくるのではないでしょうか?
あっあの人は 超が付く1流の人間、いや会社
だったんだと言うことには枚挙にいとまがない。
あまり格差が少ない社会をめざそうとしている
日本人社会がある意味成功している証明で
あるといえなくもないが なんとももったいない
話ではあるまいか。よく言えば宝の持ちぐされ悪く
言えば灯台もと暗し、猫に小判である。これからは
まだまだ日本人社会に埋もれているであろう特に
超の付く逸材の流出を防ぐ事とと掘り起しを
教育と共にもっともっと積極的に我々は行うべき
努力すべきではないだろうか?
特に評価の仕方については我々日本人は
会社の人事をも含めてもっともっと勉強
すべきである。
話が高見へ行ってしまったので元へ戻そう。
アメリカへ渡ったダイリーガーには 有名人
ばかりがもう何人もいる。
あっあの人もあの人もと いう人たちばかりだ
申し訳ありませんが名前をいわれれば
あっそうかという人達ばかりですので
ここは当方の独断と偏見によって 数人に
割愛させてもらうことに請許申しあげます。
野茂英雄 いわずと知れたダイリーガー開拓者
トルネード投法は面白かった
何よりも彼がアメリカに 道場破りに行った年と
私が会社を起こした年が一緒だった為文句無し
に好きでした。またボソボソと話すあのボクトツとした
話しぶりとどこにあの闘志を秘めているんだろうと
いうギャップがたまらなかった。
イチロウ 野球の申し子 最強のレコードホルダー
探究者
松井 静かな大きな英雄 公共性の高い孤高の男
前置きが長くなりましたが 当然と言えば当然ですが
上原はこれらの英雄達とは また違った形の
ヒーローである。
彼が渡米すると聞いたとき 正直やめた方が良いのでは
という気がしていたその理由としては 第1にアメリカでは
彼の速球では全く通用しないと思ったからである。
間違いなく一杯苦労ばかりしてしょんぼり帰国するのでは
と思ったからだ。 だって2-3Kも落ちた最速143K台
の速球は 今や甲子園球児でも 普通に投げる速さ
だからである。ましてやダイリーグである。加えての年齢だ
彼は34歳位だったと思う。もう後5年いや3年若かったら
と思ったものだ。さらに投げるボ-ルまでも違うではないか?
この手元がスベルといわれるアメリカのボ-ルでは
さすがの針の穴をも通す正確無比なコントロールも役に
立たないではないか? これまでに築き上げてきた大学
での記録を始めとする数々の輝かしい記録や 華々しい
世界一や オリンピックの名誉も何も 砂上の楼閣と化して
しまう大きな危険性をはらんでいるように感じたからだ。
しかしながら彼はきっと自信があったのだと思う敢然と
立ち向かって旅立って行ったからだ。そして渡米後は
私などは年齢の性でもあるのだが彼の足跡などは
余り追わなくなっていた。しかしながら彼はコツコツと
着実にアメリカでの実績を積み重ねていたのだ。
それは彼の成績表を改めて眺めたとき何人をも
うならせる全く文句のつけようがない数字の羅列が
あるのだ。ほんとにこれこそがプロフェッショナルであると思う
全く超1流人のほんとの証がここにある。
そして今回の連日の ニュースショウである。彼が
2-3日前にインタビュに答えて曰く{アンパイヤが
そのようにジャジしそう判断したのならそれがジャッジです。
しかたありません。次頑張ります。}この言葉のほんとうの
意味こそが平和で自由な世界で生まれ育って来た
我々日本人が 超1流人を見逃してしまっている元凶
にヒントを与えてくれているのではないでしょうか?
ほんとうの実力の世界に一つ身を置きほんとうの自分の
実力だけで生きてきた また生き残ってきた勝負を
し続けてきた人間が発した重みのある言葉です。
決してまちがっても軽く聞き流してはなりません。と私は
思うのですが 皆さんは如何でしょうか?
私が思い描くダイリーガーで通用する人です。1.日本で
通用する速球を持っていること。2.ボール半分また自分の
思うところにいつでも 思う球種で思う速度で思う
ピンポイントに 自由自在に 投げ分けられる投球技術を
既に会得していること。 3.自分をコントロールできる
客観視できるプロフェッショナルな明るい積極的な考えを
持っている人(豊富な知識、細かな観察力 冷静な分析力
賢い謙虚心明るくアグレッシブな心 洞察力 向上心
探究心 公共性)4.クレバーな男 (上記3を含む
いろんな意味で)です。
別に私ごときが 心配しなくてもよいのですが
今ダイリーグで大活躍中のピッチャ-の中で ダルビッシュ
松坂は別として もう一人私が上原と同様に心配した
別の男がいます。 その人は岩隈です。彼にも今まで
同様に頑張ってほしい。 どうも私は見るからに
プロ向きでは無い心根のやさしそうに見える人が
場違いの様にも見える修羅場の実力の勝負の
世界で頑張っている姿を見ると応援したがる傾向に
あるようだ。
あとは黒田も頑張っていますね。もちろん田沢投手も
ですが、みなさん頑張ってください。 上原投手その後の
肘は肉離れは大丈夫ですか?
あなたが封印ボールの紐を解きわが身をけずって
体を張って勝負に出たことはみなさんが知っています。
これもプロだからこそですね。
どうか今後とも怪我やお体に気をつけて
益々ご活躍されますようお祈り致しております。
そして元気をありがとう
< 請許 敬称略> < 終り>
2日掛かりの帰京
A-3
3)-1
我々は普段 何の疑いも無く軽い気持ちで文明の機器
飛行機なるものを利用している。今回の帰省程ヒョンな
トラブルから行きは良い良い帰りは怖いを 充分味あわ
されたものは無かった。普段は大変な時間と距離を短縮
して 移動していることを 改めて思い知らされたのである。
さて そんなこんなの天気続きで 帰郷しても好きな海
には1度も浸かれず9日間 同窓会みたいなもの3回
星原祭り 牧川祭りと祭り2回お客さん多数 朝から
晩までひたすら酒浸りと だいぶん肝臓と体力が
衰弱 致しました。 ≪ 続く ≫
3)-2
帰りがまた大変 オープンチケットの悲しさか 行きがけに
(島へ渡る前に)鹿児島空港の可愛い子のいるカウンターで
リザーブしたつもりの日付が なぜか違っていて 種子島から
キャンセル待ちになる羽目に水中翼船トッピーも考えましたが
飛行機よりも人気有る乗り物だからまず無理 時間は
掛かるが 出島(ほんとに長崎から来た船だそうです。
1000トンの普通の客船)に乗れたとして 港までの)
移動距離と鹿児島へ着いて市内から
空港までの距離を考えると,難しい判断でした。
≪ 続く ≫
3)-3
あきらめて 待つことにしましたが,それから 待つこと
4時間 遅れること 1時間 飛び立ったは 良いが
鹿児島空港の 滑走路見えず〔視界不良〕降りられず
福岡空港に向かおうとしたら 悪天候の為不可 最悪は
宮崎空港へ向う腹を決めて 鹿児島上空の真っ白の
何も見えない雲のなかを 小型機でブンブン飛ぶこと
1時間40分通常25分から30分の道程を考えると
ひどいものでした。 これで終わりではありませんでした。
鹿児島空港での空席待ちは JAL,ANA,とも
180番台から230番 結局兄の家に 1泊避難
せざるを 得ませんでした。
≪ 続く ≫
3)-4
次の日も 朝9時頃行ったら もう100番台何せ
1便につき2,3人 多くて7,8人が呼ばれる状況で
きょうもダメだとあきらめていたのですが ものは試して
みる ものと JALの呼び出しカウンターの前で1日中
座り覚悟で座りこんでいたところ 哀れかわいそうと
思われたのでしょうか はたまたJALのチケットを
持って いたのが 功を奏したのでしょうか
係りの女の娘が ツカツカと寄って来てくれて
当方の115番とJALのチケットを確認すると
瞬く間に7番からの人から始まって 最後は
とうとう115番までの人迄 わずか15分位の間に
吊り上げてくれました。115番を言われたとき
JALの チケットと 一緒にサっと出すとすぐに
取ってくれました。 そしてまた25番の人から
始めておりました。それでも乗れたのは 鹿児島発
最終便の20:30でした。いやはやこんなに 疲れた
帰京は ここ30年の 記憶で 初めてでした。
良かった事と言えば 客人や祭りで ほんとに懐かしい
顔の知人や 同級生と会えたこと。 年老いた母親と
ゆっくり話ができた事でした。
ほんとに遠いですよ。 千葉と 種子島は
あの木綿豆腐はどこへ
A-5
5)-1
「夕食は何にする。」 と家内から聞かれて なぜか急に豆腐が
食べたいと思った。とっさに冷奴となにか豆腐料理をと要求した。
夕食には当方の望み通り豆腐の入った煮物とあえ物と冷奴
他が並べられた。満足であったが冷奴を 食べていてあれっと
思ったのである。何年もいや結婚して20年も豆腐を食べ
続けていたはずなのに冷奴が美味しくない。
自分で要求した性もあるのだろうが 改めて豆腐の味を
いまさらながら確かめてみるが 何か違う。 今までずっと
食べ続けて来て知っている味のはずなのに、、別に今まで
気にも留めて来なかったようである。しかしながら とにかく
自分が小さい頃 食べていた豆腐と 全然違うことに気ずいた。
食べたいと思ったその瞬間に昔の味を思い出したのか?
≪ 続 く ≫
5)-2
いや食べたいと思ったのが 昔の豆腐の味だったのだろう。
とにかく今の豆腐はいわゆる表面がツルツルしていて
面になっている きれいだ。 味の甘味が薄いというより
無いと言った方が良いかもしれない。豆腐と言うよりどちらか
というとケーキだ。 家内に聞いたところ これは普通の豆腐で
木綿豆腐では無いと言う。
それではと言う事で次の日も 木綿豆腐を買って来させた。
確かに昨日の物よりわずかにではあるが表面に木綿の跡
らしき物はあるし 多少味も違っていた。しかしこれとて
自分の知っているあの豆腐ではない。とにかく大きさからして違う。
今の豆腐は昔の半分くらいだ。
≪ 続 く ≫
5)-3
昔のあの豆腐は完全に木綿で濾した木綿布の跡が残っていて
大きくて硬くて 箸で割ると中は荒荒しくて醤油を垂らすと
ジュワーと中まで染みていく あの豆腐だ。味には甘味があった。
今の豆腐は小さいし味に甘味が無い。 箸で簡単に割れるし
割れた面もきれいだ。 醤油を垂らすと中まで染みていかないし
割れた面を流れるだけだ。ほんとにケーキと言って良いくらいだ。
年を重ねて舌で感じる味が変わったのだろうか?いやそれに
してもあのちょっと 苦いような微妙な甘味は無くなっている。
食べたときのボソボソ感が無い。醤油の性だろうか?義母達に
言われて 九州の醤油と関東の醤油の味の違いに気ずいた
のは ほんの十数年前のことだが
≪ 続 く ≫
5)-4
(義母達は九州の醤油は甘いと言ってわざわざ 九州から
取り寄せた事がある。)どうも醤油の味の性でもないらしい。
やはり違う。 天然ニガリだ、国産大豆だ、バイオ大豆
だと言っても、当方には さっぱりピンと来ない。
とにかく 食べたいのは 田舎で食べた 硬くて大きくて
ボソボソとした荒荒らしいあの甘い豆腐だ。 明治27年
生まれの 祖父は豆腐が大好きだった。あの大きな
豆腐1丁を醤油をかけて ほんとにうまそうに食べた。
祖父の使いと言えば 私はタバコと豆腐を買いに行く事
だったことを 今思い出している。大量生産と言う時代の
流れによって あの豆腐を作っているところは もう日本には
無いのだろう。残念だが 仕方の無い事なのだろう。
蛇足をもう1つ 昔の牛乳は濃かった餃子は一皿7個だったのだ。
これも時代の流れによるものだろう なんのこっちゃ ではまた
≪ 終り ≫
あの星空を、
A-6 6)-1
疲れていたので早くに床に入った。いつもより早く寝た性
でしょうか?夜中2時半頃 目が覚めてしまったのです。
それからが大変でした。仕事の事であれやこれや考えて
いるうちに 完全に目が覚めてしまって 眠れなくなって
しまったのです。こうなるのは 度々ありますので別に
珍しいことではなく 大抵は 起き上がってパソコンに
向かうか 何かの本を読むかにします。ところがきょうは
どちらもなんとなくしたくありませんでした。 思い出した
のが 何日か前の三ケ月です。ふと夜空を見上げたら
三ケ月がきれいでした。 正確にいうと 実は私の視力
の性で よく見ると ぼやけて2重3重に見えているのですが
1番星でしょうか を従えて澄み切った夜空にきれいでした。
こんな夜は 小さい頃よく見上げた 故郷種子島の星空を
懐かしく思い出します。
≪ 続 く ≫
6)-2
ずい分前になりますが ニュースで流れていたオリオン座
流星群の時も 1日前でしたか 全く同じような状況で
起き出して 夜空を眺めたのですが あの時はがっかり
しました。夜空は ところどころ 薄い雲がぽつぽつと
なぜか空半分 北西側だけに3等星位迄でしょうか
薄明るい星が ぽつりぽつりと見えるだけでした。
とにかく 夜空といっても 町のあかりやら 街灯で
空全体が 薄いブルーと いうか とにかく明るくて星の
数もまばら 見えている星も 輝きが薄いのです。
念のために あの時はオリオン座流星群が 今日から
始まるという次の日も 起き出して見ようとしましたが
その日からは 完全に曇りで 夜空の星は全く見えず
残念でした。
≪ 続 く ≫
6)-3
都会では 月はある程度きれいに見えるのだけど
星はみえない。 種子島を出てから この事に
気づいたのは 10年位経った頃だったでしょうか
富士山に登った時の 夜空と下の町明かりの
綺麗さで 気付いたのです。 しかし 富士山から
見上げた 夜空も 真にきれいですが それは
かの有名な 松尾芭蕉の 荒海や佐渡に横たふ
あまの川 の情景と 想像ですが同じような気がします。
つまり 見上げた 澄み切った夜空には 星々や
天の川があってとてもきれいなんですが なんといい
ましょうか 空間の拡がりといいましょうか
≪ 続 く ≫
6)-4
遠くまで見渡せている 感じがします。 私の見たい
思い出している星空は輝きの強い星群が もっと近くに
見える。 それこそ 満天の空一杯に散らばって
天の川の雲の中にも 星が 見える あの光景です。
そう プラネタリュウムでみる もっと近くに 見える
感じのする星空です。デイズニーランドのスペース
マウンテンの感じが 案外 近いかもしれません。
プラネタリュウムの 横の壁の代わりに 島影や
黒い木々や 林があって見上げた真上の星空です。
星が降るとよくいいますが まさに そんな感じです。
表現が難しいですが もっと言うなら見上げている
よりも 宇宙の只中にいる感覚ですかね。
≪ 続 く ≫
6)-5
夜中の 1時か2時頃が 最高ですかね。漆黒
の闇のなか もの音1つしない キーンという
感覚とともに 真上には天の川満点の星々です。
しばらくじっと よく見ていると少―し 全体が
回転しているような感じがします。流星なんか
右や左に しょっちゅう飛んでた様な記憶が
あります。 種子島を離れて 40数年が
過ぎました。今では島でも大分明かりが
付いて 昔のような漆黒の闇なんて事は
あまり無いと思いますが それでもまだまだ
綺麗な星空が望めると思います。母の体も
心配だし 来年の夏あたり 星空を見に
女房共々 また帰省してみるかな。
では また ≪ 終り ≫
お見事
A-7 7)-1
なかなか連絡が付かないお客様にやっと連絡
が取れてほっとしている車中でした。相も変わ
らずの だらだらのろのろの走行に うんざりして
いるところでした。外は強い日差しのまばゆい
ばかりの昼時で さっきまでの のろのろの走行
が止まりそして その後に展開された光景に
思わず「ほう」 という言葉が口をついて出て
しまっていました。 いわゆる「お主できるな」
というような類である。 駐車場の警備員
さんの話で ある。
≪ 続 く ≫
7)-2
この前 別の交通整理員さんで いらいらした
経験があったのでなおさらでした。 動作が
小さくどちらを 優先するのかはっきりしない。
いつが始まりでいつが終わりなのかはっきり
しない 一人ということもあったのでしょうが
またこちらも 特に急いでいたということも
あったのでしょう。 それにしても一目で ど素人
昨日雇われたばかりのアルバイト なんとか金
さえ貰えれば良い というような全くやる気の
無いそして 突っ立っているのがむしろ あなた
お邪魔という様な感じの人でした。
≪ 続 く ≫
7)-3
最近はアルバイトの方でも ちゃんと教育を
受けてから 現場に出ているの でしょう。
こういう人は 殆ど見かけなくなりましたが
未だこんな人がいるんだと いうような人
でした。 それに引換え 今日見た人は
大げさに言えばこれぞプロという感じの
人でした。久しぶりにこんな人を見ました。
ひとは見かけによらないといいますが
失礼ながら どう見ても60歳過ぎの
この方がまたなんと 女性なんです。
普通のおばさんといったところでしょうか。
動作が はっきりしている。いわゆる
切れがある。
≪ 続 く ≫
7)-4
顔は笑顔を絶やさず 急いでいて急がず
そして 決して最後の お礼を忘れて
いない。着ている青い 警備員服が4
なんとも まばゆく見えるような なんとも
かっこ良く なんかまぶしくさえ見えていた
ような気がしました。 駐車場から出てくる
車を はっきりした大きな動作と共に
止める。 まず止まっている通行人を
笑顔とともに 誘導しながら通す 次に
同様に自転車を通す こちら側の車列
を止める 軽く会釈でお礼する
同様に反対側の車列を止める
≪ 続 く ≫
7)-5
同様に軽く会釈でお礼する.駐車場から
出てくる車を はっきりした大きな動作と
共に誘導して出す止めている反対側の
車列を 合図と共に通す 同時に軽く
会釈でお礼する 同じく止めている
こちら側の車列を 合図と共に通す
同時に軽く会釈でお礼する全く動作の
流れに 無駄が無いのである。 動作が
きびきびとして大きく はっきりしている.
次に なにを しようとしているのかが
こちらがすぐ理解できるのである。
笑顔を忘れていない 御礼を会釈と
共に忘れていない 通行人や自転車を
通す時 急いでいる素振りは
微塵も見せない
≪ 続 く ≫
7)-6
なんとなく落ち着いていて 通行人を
守っているような感じさえ受けて
少しわらっているようにも見えるので
通る人に 安心感を与えている 感じ
である。 この間何分間だっただろうか?
まるで皆が 魔法にでもかかったように
全て彼女にまかせたままで全て黙って
彼女の指示に従った。 待っている間も
不思議と 全くストレスを感じません
でした. 実に すがすがしい 気持ちのいい
久しぶりに プロの仕事を見たような
気がしましました. 【お見事】でした.
では 次回また ≪ 終り ≫
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